「愛に関する十二章」


平易に、やさしく伝えることは難しい。
例えば「私は、○○○なんです。でも……。」と話される時、その人が本当に望んでいることは○○○ではなく、「でも……」と小さな声でのみ込まれた言葉の後にある。
「でも……」に耳をかたむける感性がなければ、相手の深い内面に近づくことさえできない。それはしばしば、○○○とは対極的なこと、だったりする。


平易に伝える言葉を学ぶのに、五木氏の文章はひじょうに参考になります。
といって数多くの作品を持つベストセラー作家を、こんな風に評するのも妙かもしれない。あまりにもサラリと書かれるために、私のような偏屈者はかえって敬遠しそうになるのですが、その文章は何重もの背景と共にあるもので、「上っ面」を読むだけでは意味が無いとさえ言える。
読む者の持つ経験や智恵によって、見え方がガラリ変わってしまう文章なのです。


その上に「愛」ーーときている。
自己愛から始まり、同性への愛、家族愛……そして恋愛、セックスと12の章を立てて、語っておられる。
「自分は『愛』について認識が足らなかったナア」と反省する。
だが、それで良いのだろう。
「愛だろ、愛。」とひとこと言えば、それで自明であるかのようにこの言葉が使われるより、
それがどれほど多様性に富んでいるものかを知る方が豊か、だからだ。
そこには「愛よりも、情が必要」という、蓮如にも通じる「他力」のやさしさが、穏やかな春の海のように横たわっている。


「言葉と愛」(第十章)についても書かれているのに、注目したい。
「愛」を洞察していて、「言葉」の大切さにひとはどれだけ気づけるだろうか?
本来言葉とは、「相手に伝えたい」「同調したい」という願いが先に関係性にあってこそ、生み出されるものでしょう。仮に言葉が無かったとしても、その「間」の中で何かがやりとりされたり、聴かれているわけですね。
「言葉」が相手に大切に渡されてない場面では、ひとと響き合ったり・同調することはあり得ないのではないだろうか。
五木氏は「愛」について様々に語りながら、ひととの「間」にさやかに・微細に存在する願い・気配・エッセンスについて感受してみたら…、と提案しているようでもある。
さらに踏み込んで、ひとの潜在意識にコンタクトし・語りかける言葉について書かれたなら、「ひととひとはどう出会えるか?」という世界が、その色彩をいっそう鮮やかにするのではないだろうか。


▼追記ーー引き続いて五木寛之氏の著作を「他力本願」「蓮如」で検索して、アマゾンから取り寄せ読んでいます。
「他力」講談社文庫、
蓮如ーー聖俗具有の人間像」岩波新書
蓮如ーーわれ深き淵より」中公文庫、
の3冊。それぞれ古本で5円! から150円で入手できました。
読んでみてわかったのですがーー同様なテーマであっても「愛に関する十二章」も含めて4冊の間で文章の質がまったく異なって書かれています。
「平易にひとに伝える」という観点では、「愛に関する十二章」の文章が奥深いようです。


「他力」は短い文章が100並べられていて、奥深い所に入る手前で終わってしまう。
でもこれはこれで、通勤時間や家事の合間に「パッと開いたページを読んで安心したり・刺激を受ける」という使い方ができるでしょう。
こういうのも五木氏の他力的な心づかい、なんだろうな。
同じテーマがバリエーションをもちながら何度も繰り返されていて、それが読む者の潜在意識に染み込んでくるのです。


五木氏は「慈悲」の「慈」は父親的なひとを励まし・育てようとする愛、
「悲」は母親的な、人間の持つ悲しみ・苦しみとただ寄り添っている愛であるーーと書いています。
そしてこの母親的な「悲」=大衆的で愚かでもある感情こそが今の時代に必要、としているのですが…、
かえりみて、自分という人間の「小ささ」を想起させられる。
しかしこの「小ささ」は同時に、滑稽で滋味深いものでもある、ようです。

愛に関する十二章