死と再生の、限界を越える一線

私が、「身心一如のアロマセラピー」の実践・研究の中で知り得たことを、ニューズレターあるいはメールマガジンとして、お伝えしています。
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もはや、「自分が生延びたい」ということからも離れて、
「せめて人にみつかる所で死にたい」と願い、彼ら2人とも命からがらボロボロになって雪山を降りてきた……という。
生命の根源的なチカラは、ギリギリの局面でこそ、やはり生まれるのだなあーーそう感じつつ、私は映画館のスクリーンを見上げていた。言葉にならない重たい何かが、下腹辺りで振動していました。

映画「運命をわけたザイル」は、南米アンデスのシウラ・グランデ峰(6356m)で実際に起こった遭難を、ほぼそのままの形で映像化したものです。
若い登山家ジョーとサイモンは、最小限の装備で未踏の西壁に挑み、登頂後の下山中に滑落してジョーは脚を骨折した。
6000mを越える稜線上で脚を使えなくなることは、それだけで死を覚悟しなくてはなりません。
けれどもサイモンは、独力でもジョーを垂直の氷壁から救出しようとした。

しかしジョーは、オーバハングした断崖にザイル1本でぶら下がる状態となり、自らも危機に曝されたサイモンはやむおえずザイルを切断…。
ジョーはその直下のクレバス(氷河に開いた氷の裂け目)に落下したけれども、クレバス内部の雪の棚で生きていて、
奇跡的にここを脱出して、帰還できたーーというストーリーです。

題名や宣伝では「ザイルの切断」が焦点になっているようですが、
私としてはクレバスに落ちたジョーが、底があるかどうかわからない暗い氷の谷間を自力で下降して行ったことが、なにより驚きです。
片足は動かず身体は極度に衰弱していて、孤独で冷えきった氷の暗闇にいる、ということ。
ザイルを昇るのが不可能である以上、選択肢は他にないわけですが…もし私だったら、いや普通の人間だったら、ここで生を諦めるのは間違いありません。
つまりこれは「死と再生のプロセス」であり、センツ・オブ・ノーイングそして私にとっても中心的なテーマです。
どうしてジョーは、閉じこめられて次第に衰弱し死に至るのではなく、暗闇に降りて行く行動を「選択した」のでしょう??
なにが彼を、クレバスという「胎内」を通過させ、奇跡的に生還させたのでしょう???
ここにある「限界を越える一線」のような何かを、じっくりみつめてみたいのです。
今のような不安定と困難の時代だからこそ、「死と再生」の智恵がいっそう求められているーーと言えるかもしれません。

苦悩の一夜、ジョーは自分を罵り、泣き、怒り、疲れ果て……何もかもを手放したのでしょう。
やがて氷の暗闇を降りて行き、クレバスの内部に雪が溜まってできた、外部への脱出ルートを発見します。
「金色の光が数条、天井の小さな穴から斜めに差し込み、クレバスの遠くの壁に明るく反射していた……
すっかり心を奪われ、足下の不安定な雪の床のことも忘れて、残りのザイルに沿って下りて行った。
あの光の所まで行くのだ。私はその時、絶対的な確信を持ってそう思った。
どうやって、いつ光に届くのかよく考えてのことではなかった。ただ、そう思った。」(原作本「死のクレバス」p195)

その後ジョーは腹ばいになって両腕のチカラで身体をひきずって、危険な氷河帯を下り、岩の積み重なるモレーンの長い谷間を越えて、ベースキャンプに帰ってきた。
よく怒り、よく笑い、ホンのチョッピリの可能性でも見出せれば勇気を取り戻す、ジョーやサイモンは自分の身体感覚にも鋭敏な人間のようです。
結局ジョーが発見された場所が、ベースキャンプで皆がトイレとしていた所だったというのも…、むしろ必然的であったように感じられる。
あまりにも体力・気力の限界を超えた中で、ひとの内なる生命の息づきは人間の糞尿の匂いに導かれたのではないかーー
それはとても人間臭くもあり、興味深いことです。


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原作は、「死のクレバスーーアンデス氷壁の遭難」J・シンプソン著 岩波現代文庫 1050円。死のクレバス―アンデス氷壁の遭難 (岩波現代文庫)