ひとは、わかち合うことができる存在

ひとは、わかち合うことができる存在であるーー
どうして、そんな風には教えられてこなかったのダロウ?

(少なくとも私の場合は。)
今となって考えると、フシギに思えるのです。


「自分のことは自分でしなくては」とか、
「他人に迷惑をかけるのは、いけない」と両親や学校で教えられたけれど。
「わかち合うことができる」とは教えられなかった。


あなたがもし、これを親達からしっかりと教えられたなら、幸運です。
やはり「わかち合うことができる」という認識は、「自分のことは自分でしなく
ては」という考え方より、高いレベルの意識/世界観なのだろう。
残念なことに、若い頃の私の親達はそうは考えられなかったのでしょう。
時代状況のためも、あるだろうね。


「わかち合い」と言われて、「そんなことできない」「できるわけがない」と
感じる方もおられるかもしれません。
……それもまた、自然なことだ。


「そんなことできない」と感じる、その気持ちの底にある「何か」に、
もしできたら意識を向けて欲しい
のです。
そこにある「傷つき」「怖れ」「不安」……これらも、大切にされるべきこと。
ユックリと、受け入れ・溶かしていったらどうでしょう。


●香りで、世界の見え方も(チョット)変わる

アロマの世界で言えば、「ロータス=蓮の花」。
垂直に強く立ち上がる香りで、むしろエネルギ−そのもの、とも感じられ、
なにか「毅然とした強さ」も持っています。
とても貴重な精油ですが、これをかいでみると……視野が微妙に変化するのがわか
ります(本当にビミョーな変わり方です。笑)
視界が水平方向に、平らかに広がり、自我の高まりが小さくなるような。


ロータスは「慈悲」「利他」の象徴でもあります。
エゴを軽やかに離れて、他者に奉仕する時の「世界はこんな風にもみえるのか」
と、少しつかめるようです。


自分という「柵」を内側から開くことは、智慧を受けとることでもある。
どんな風に、わかち合える可能性があるのでしょう?
ひとは何を、わかち合うことができるのでしょう??

まずは、わかち合う「場」を作ること、
作り続けること、
耳を傾け合うこと、
その「場」に確かに存在していること
……から始まるのではと、おもっています。