祈りの道

bun_tao2005-01-22



午後から世田谷美術館へ出かけて、「特別展 祈りの道ーー吉野・熊野・高野の名宝」をみてきました。
いよいよ1/23で終了、つまりこの週末しか期間がないからある。11月から開催されているのはわかっていたのだけどなあ。トホホ。


案の定すごい人出で、入り口で当日券を買うだけでも30分くらい行列するほど。
中に入っても、空間に余裕のある世田谷美術館のはずなのに、押し合いながらみる状態なのだ。


もとより、「美術館に並べて展示された仏様をながめるのも、ナンダカナア…」とおもう。寺院という独特な「場」で出会うから、何か感じられることもある、のではないだろうか。
それに「フムフム」関心しながらモノをみているより、「10分でも瞑想したらどうですか」と言いたくなる所もあるなあ。


それでも…である。
高齢の方や車椅子の方も少なくない、ひとの様子をながめているとーーこうして人々を熊野へ惹きつけさせている「何か」を感じるのです。それは「巡礼」のようでもある。
「何が、そのひとに巡礼させているのか?」
平安時代に山中の古道を歩いて越えた人々や、チベットの雪と岩ばかりの道をマントラ呟きながら行く巡礼のグループ、あるいは杖をつき笠をかぶった四国遍路のイメージが、目の前の人々と重なる。


ただ歩くことに意味がある、とも言える。
何かを浄め・流したいのかもしれないし、願っているのかもしれない。
そこには簡単には言えない、さまざまな「おもい」が抱えられているのだろう。
これらを受け入れてくれる「容器」=ひとびと・地域・文化がそこに存在しているーー
ということも、ひじょうに有り難いことだ。
熊野や四国、チベットに、とても度量のある大きな「容器」が醸成されているのを、感じます。受容する容器として、地域に蓄積された歴史の重なり。


それにしても、ひとは何故、「祈りの道」を歩もうとするのだろうか……。「何」が、ひとに巡礼させる、のだろうか。


毎日新聞のHPにも特集されてます
http://www.mainichi.co.jp/life/culture/jigyo/event/art/2004/inori-tokyo/