「ライフ・レッスン」を読むーー「真の自己」を求める内的な小さな旅

エリザベス・キューブラー・ロスの「ライフ・レッスン」についての、私の感想文です。
よかったらこの本を読んでみて下さい。
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●「ライフ・レッスン」エリザベス・キューブラー・ロス/デーヴィッド・ケスラー共著 角川書店 2001年
「ことばで説明するのがきわめてむずかしい愛こそが、
人生という経験のなかでただひとつの真実であり…
愛は恐れと対極にあるもの、
つながりの本質、
創造の核心、
力の美しい部分、
自己が自己であるためのもっとも微妙な部分である。」(p38)

こんな言葉に私は、揺さぶられ、魅了されるのです。
ターミナルケアのパイオニア的存在であり、「死ぬ瞬間」の著者であるエリザベス・キューブラー・ロス氏が、死にゆく方々から学んだ数々の智恵を「ほんものの自己」「愛」「人間関係」などの15のレッスンとして、まとめた本である。

共著のデービッド・ケスラー氏と織り成された文章は輝きに充ちていて、読む者の状態・時を反映して、伝わるものがさまざまに変化することでしょう。
できるだけ沢山の方々に、この本を読むのを勧めたい。

上記の「愛のレッスン」の冒頭に置かれた文章に、どうして今時点の私が揺さぶられたのだろうか…? ここにも注意深く・自覚的でありたいものです。
この本を手に取る時、私やあなた、ひとに何が起こるのか?

「愛」「人間関係」「喪失」「力」「罪悪感」「時間」「恐れ」「怒り」「遊び」「忍耐」「明け渡し」「許し」「幸福」「最終レッスン」…これらの中で私として最も惹き付けられたのは、「ほんものの自己」のレッスンでした。

「病気とたたかっている人をみていると、自分とはなにかを知るためには、ほんものの自己ではないものをすべて脱ぎすてなければならないということがわかってくる……
生の終局ににあって、その人は以前よりもずっと純粋に、正直に……
まるで赤ん坊のように……その人自身になっているからだ。
……おのれの真の自己を発見し、他者のなかにもその人の真正の自己をみること……
それが人生の第一のレッスンである。」(p20)

「真の自己」が現れてくるプロセスをここでは、ミケランジェロが大理石の塊から余分な部分を削りとり、ピエタダビデのイメージを浮上させて彫刻したことに、喩えている。
けれど私が想像するのは、むしろこんなイメージなのですーー
病や苦しみに囚われた人は、その苦悩の炎に包まれている。
身を焦がす熱さや痛みが、臓器や関節・身体の各部にひそむ老廃物・細菌・ウイルス・脂肪・しこり…傷つきさえも溶かし出し、身体の外に洗い流していく。
やがて炎が燃え尽きる頃、すっかり老廃物をそぎ落とした、「その人の内に本来あった自分=真の自己」が立ちすくんでいるーー
ひとが自らの「病」や苦しみを受容する時に、もともとの自分という存在が現れ、輝き始めるのではないだろうか。私の関心は今、ここに焦点を結んでいます。

だが「アタマで考えられたこと」ではなくて、まさに「ここに在ること」として語られなくてはならない。正直言えば、私はココが弱いのです(トホホ)。ひとに伝えるチカラが弱くなってしまう。

そして、「真の自己」とは何だろうか??
おそらくそれは「『自分』と思っている自分の像」とは、だいぶ異なっているでしょう
子供の頃にもともとその人が持っていた部分・資質が年月をへだてて、エッセンスとして現れてくるのではないだろうか。
数多くの体験談や2人の著者の記述の中でも、読む者の選択や洞察のためのスペースが残されているのが、ありがたくも感じられます。

「ライフ・レッスン」を読むことーーそれは「真の自己」を求める内的な小さな旅でもある。
ここで道案内の手掛かりとして確かなのが、キューブラー・ロス氏の「率直さ」です。
「愛が生まれるとしたら、それは他者からの刺激や他者への返礼としてではなく、
自己の内奥からしか生まれてこない。
そしてわたしは、いまだその境地に達していない。」(p50)

繰り返し脳卒中で倒れた彼女は、動けない身体でこの本を書いた……それでも「愛を受け入れられる自分、とはなっていない」と、冷静に認める「率直さ」。
矛盾しているようだけれども、この「率直さ」こそが「真の自己」を求める旅では変わらない宝物、とおもえるのです。

「もとめている全体性はいま、ここに、わたしたちとともに、
わたしたちの内部に、現実に存在する。
それをおもいだしさえすればいいのだ。」(p39)ライフ・レッスン (海外シリーズ)