「依存」とは何でしょう


ひとは、弱い存在。
何か? 依存する対象を求めずにはいられない……
「依存」という現代人にとって大きなテーマ
洞察してみたいのです。


この7月の満月に、
私の右手首で通風の発作が起こり、
毎日のように飲んでいたアルコールも、
強制的にストップせざるをえなくなりました。


これがきっかけとなり、
「『依存』とは何だろうか?」というハテナが、
私の内で響き続けているのです。


それまで量的には多くないけれどほぼ毎日、
なんとなく夜になると、アルコールを飲みたくなっていました。
そして「断酒」してみると、
意外なほどの「イライラ」や「怒り」が浮上してきて、
これらと直面させられたのです
ーー「私はこれほどイライラしていたのか」とね。


「イライラ」や「怒り」それ自体が悪い、わけではないでしょう。
これらを「見ないようにしていた」ことの方が、問題なわけです。
自分が日常で抱えている、いくつもの「怒り」。


また同じ頃に、別々の方々(いわゆるチャネラーさん達)から、
私が根本的に「とても傷つきやすいタイプ」なのを
指摘されることも続きました。


そうなんだ……
例えば20歳の頃は、他人のチョットした眼差しだけで、
眠れない夜を過ごしたりするのも多かった。
(特に何かを言われたわけでもないのです)


そうした「傷つきやすい自分」を忘れようと、
酒を飲み、
「怒り」や「かなしみ」をなだめるクセもあるようだ。


ひとは(多くの場合)何かの対象に、
「依存」せずにはいられない。
酒に、
食べることに、
ギャンブルに
買い物に、
セックスに、
子供の教育に、
仕事に……、
何かの対象をみつけては熱中し、「依存」しようとする。


それでは、まったくナンにも「依存」しないーーというのが、
ただしく「自立」したあり方、でしょうか??


私の場合でいえばーー
酒を飲まなくなると、食事も美味しく感じられなくなるのもわかりました。
試しに少しだけ、酒を口に含んでみると、
これが一口一口の料理を美味しくしているのが、
たしかに実感できます。


私には「食べること」も人生の大きな喜びの要素なんですが、
これを喪ってもいいのだろうかーー
断酒しながらも考えてしまいました。


私にとっては、手首の炎症を悪化させないための「断酒」であり、
「断酒」自体が目的ではないのですから。
人生の喜びを欠いてまでして、
「断酒」にこだわるのは「行き過ぎ」でしょう。


大切なのは、「酒を呑まないでいる」または「呑む」のを
私が意志を持って選択できることーーです。


「依存」の中で自覚(アウエアネス)していること。


例えば植物が地上になければ、
私達は酸素を吸うことができません。
森羅万象の「相互依存」の中で、私達は生かされている。


「依存」に無自覚にのみ込まれているのではなく、
まずはその内で気づき、
それを活かし合う「相互依存」へ変えること……。


ひとはなかなか「依存」から、逃れられない。
けれども、相互に依存する関係をみつめる時、
「生かされている自分」を発見できるーー
ようです。


「依存」とは、人間にとって本質的に何なのでしょう???