ユングは「力」の反意語を無力ではなく「エロス」だと考えた

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「境界を超えてーーシャーマニズムの心理学」ドナルド・リー・ウイリアムズ著 という本を、久し振りに本棚から取り出したら……
数枚のメモ紙がこぼれ落ちてきた。
まるで、この本を読んでいた「10年以上前の自分」からのタイムカプセルのようでもあり、
過去の自分からの「問いかけ」みたいでもある。


ひとつの紙片には、こう書かれていた……
「C・G・ユングは力の反意語を、
無力ではなくエロスだと考えた」


「……愛が支配する場所には、力への意志は存在しない。
そして力への意志が優先するところには、愛が欠けている。
一方は他方の影でしかないのである。
エロスの立場を取る人は、
力への意志の中に自らの補償的対立者を見出す。
力に重点を置く人の場合、
その補償的対立者はエロスなのである。」The Collected Works of C.G.Jung から



「10年以上前の自分」がこの言葉を書きつけていたことに、
苦笑してしまいます。
この面では我ながら、あんまり変わってないみたいだな〜(笑)。


「愛=エロス=女性原理」と「力=父性原理」の、本質的には補い合う関係であり、
(にもかかわらず実際には…)折り合うことが困難な関係…。
お互いに学べることはとてもたくさんあるはずなのに、
しばしば対立することにもなってしまう関係。

それは「ひきつけあう」部分があるから対立もするわけなのですが、
「対立」にとらわれると、この本質が見えなくなってしまう。



「愛=エロス=女性原理」と「力=父性原理」の2つの原理の「あるがまま」をみつめてみたら、
そこには何が在るだろう?」


「あるがまま」の渦中にたたずむのは、
感情の暴風雨の下で、ズブ濡れのまま立っているみたいかもしれない。


「どうして愛してくれないの〜」と泣き叫ぶ存在が、さまよっている。
そこに……
愛は……与えることができますよ〜」とつぶやけば、
暴風雨は止み、
濡れた地面で小さな花が咲いていることだろう。


とてもささやかかな贈り物なんですが、
「私も、愛を与えることができる」とつぶやくけば、
穏やかな平和にたち戻れるでしょう。